久し振り

 このところブログどころではなく、ご無沙汰しました。

 『一六世紀文化革命』上下をとにかくも読み終わりました。序章と第九章「一六世紀ヨーロッパ言語革命」および第一〇章「一六世紀文化革命と一七世紀科学革命」を読めば、一応この本を押さえたことになるのではないかなあ。


 

一六世紀文化革命 1

一六世紀文化革命 1

 

一六世紀文化革命 2

一六世紀文化革命 2


 いつか時間があったらジョン・ヘンリーの『一七世紀科学革命』を読んでみたい。
 
 

一七世紀科学革命 (ヨーロッパ史入門)

一七世紀科学革命 (ヨーロッパ史入門)

 
 ちょうど17世紀から18世紀は、西洋において大きく思考のパラダイムが変化した時期で、この頃に起こったことをきちんと把握しておかないと現在キリスト教がぶつかっているものが何なのか、本当には理解できないのではないかと思う。

 パラダイムが変わってしまったことへの対応に、いまだにキリスト教は苦慮しているように思います。
 ならば、まずその敵の正体を知ろうではないかと考えているわけですが、はてさて。


 『新約聖書の「たとえ」を解く』を読んでいるのですが、私が今まで考えていたのとは、全然違う読み方が提示されていて、うろたえております。

 大貫隆先生の復活理解もそうだったのですが、素朴極まりない信仰を抱いている私には、こういう偉大なる聖書学者の方々の論考は刺激的すぎて、慌てます。

 「全身全霊で神に仕える」ことが何よりも優先されるべきで、隣人愛の実践というのは次善の策でしかないということを、ルカ10章のいわゆる「善きサマリア人」のたとえ(とそれとセットになっているマリアとマルタの話)は語っているのだと言われて、なんだかそれまで立っていた地面が揺らぐ気分を味わいました。

 そ、そうなんですか?
 もしこれが本当なら、私の今までの理解って一体・・・。
 下手すると、私は正しいキリスト教理解をしてなかったということにまでなってしまいそうだ。くらくら。

 というわけで、もう少し、他の研究者の論考も参照しつつ、このたとえ話について考えたいと思っています。
 
 

『新約聖書』の「たとえ」を解く (ちくま新書)

『新約聖書』の「たとえ」を解く (ちくま新書)


 『考える人』最新号を買おうと書店に行って、ついつい『古本蟲がゆく』も買ってしまいました。

 理由はただ一つ。

 我が愛する松山の古本屋が紹介されていたから。

 

 そう、岡崎武志さんの名著『気まぐれ古書店紀行』に対し私は一つだけ不満を抱いていて、それは岡崎さんは四国に全く足を踏み入れていないことなのです。

 なので、『古本蟲・・・』に高校生の頃よく通った松山市中心部にある古本屋さんが紹介されているページを立ち読みした途端、これは買おう!と決心してしまったのでありました。

 

気まぐれ古書店紀行

気まぐれ古書店紀行

 
 最初の目的だった『考える人』最新号も一緒に買って少しずつ読んでおります。
 堀江さんの文章を読めるのが嬉しい。

考える人 2008年 11月号 [雑誌]

考える人 2008年 11月号 [雑誌]

 
 しかも、次号は須賀敦子特集!

 またまた買いに書店に走らねば。

 はるる