精神病とモザイク

 お久しぶりです。ほぼ一か月ぶりの更新です。

 鎌倉から帰ってからは、毎日図書館で英語学習用の薄い本を読んで、ちょっぴりブンガクを味わっているはるるでございます。

 何せ薄いし簡単だしで、一時間あれば一冊以上読めるので達成感がありますわ。(毎日図書館で一時間と区切って読めるだけ読んでいます。)

 ちなみに本日読んだのは、Black Tulip。
 この世のすべての英語の本がこれくらい簡単だと、ストレスないんですがね…。

 

The Black Tulip

The Black Tulip

 もう消えたも同然の「身長の2倍日記」に2センチプラスしておこうっと。
 
 
 ところで、更新しなかった間に読んだ本で、最も衝撃的だったのは『精神病とモザイク』でした。

 

精神病とモザイク タブーの世界にカメラを向ける (シリーズCura)

精神病とモザイク タブーの世界にカメラを向ける (シリーズCura)

 これは、昨年話題になったドキュメンタリー映画『精神』の監督によって書かれた本です。
 この本を読見終わって、この映画を忙しいからという理由で見逃したことを深く悔やみました。

 映画『精神』公式サイト


 「こらーる岡山」の精神科医山本昌知医師が素晴らしく、是非映像で拝見したかった。
 (もっとも映画にはあまり登場されてはいない由。)

 
 少しこの本から引用します。(読みやすいように、適当に空間を空けています。)


 これは、今中さんという40年間病気と闘いつつ、定年まで会社員として仕事をされてきた方が、想田さんに撮影意図を尋ねて、やりとりがあるシーンからのものです。

今中:(前略)私の場合はね、カーテンいうのが言葉でいえば偏見いう言葉があると思うんだけど、私の場合は25歳のときに、それ取ったわけ、自分のなかで。そのカーテンを。とにかく偏見が世の中にあるのは事実で、現実は現実なんだけれども、せめて自分のなかで自分に偏見をもたんことにしてね。そういう訓練いうか、そういう風にしてきたんですよ。


想田:どうやって自分の自分に対する偏見というものを取り除いていったんですか?


今中:それはねえ……どういうんかな。あの……自分が病気がよくなってくるとね、病識が出てきだして病気がよくなってくるとね、健常者の人のことも見えるようになるんです、相手側もね。ほんで、自分は確かに病気をもっとる。ほんなら健常者は完璧かいうたら、おらんのですよ、そんな人は。僕の目から見たら人間はね、精神障害であれ普通の人であれね、いわゆる全人的に“健”状態の人は、この世の中探しても一人もいないんすよ。一人もいないんすよ!(75〜76pp)


 山本医師の言葉から。

 何事も、昔からのやり方では「健康を害された弱い人に強い人が合わせる」というのが本来的な姿なのに、ここ何十年かは「病む人が元気な人に合わせないかん」という、逆をね、初めっからどんどんやってゆく。


 強い人に合わせろ、と。で、「常識はこうだろう」とか「こういう価値を大切にしなきゃいけないんだ」とかも含めて、強い人に初めっから合わせろと。それで強い人の状況を乱すということであれば排除すると。


 これはまあ本当に、一方では病んでいると言われながら、その一方ではめちゃくちゃ強靭なものを要求されるという、矛盾した状況でね。結果が出るはずがない。(161p)

 (前略)僕は、「効率のいいやり方」というのが、今の社会ではものすごく価値が高いと思うんですよ。その辺が一番の根源。効率といっても「見かけ上の効率」でね、ちょっと見た目で効率のよさそうなことに対して、価値が高い。(170p)

 何十年も患者さんと接してきて、信頼される、信頼するということがどれだけ大事かということを、患者さんが訴えてくるのですよ。自分を信じられないとか、他者に信じてもらえないということで、しんどい思いをしとる。信じる力をつけるのが、非常に大事だと。

 
 総合的に見れば、信じてる人を裏切るのはものすごい力がいる。不信な、信じられていない人を裏切るのは簡単なんだけどな。だから、人間は信じあうというのが大事なんではないかと思うわけですわ。それがなかったら、生きるのがしんどいですよ。(178〜179pp) 

 

(前略)「部分でみて正しい=全体が正しい」こととは違うと思うんですわ。部分を寄せ集めたら、全体ができるかというと、そうではないと思うんですよ。部分が全部集まってるんだから全体になるということではなくて、やっぱりそれは要素としては全体集まるんだけど、統合される状況というのはまた別だと思うんです。相互の係わり合いというかね、一つひとる独立したものではなくて、全体の係わり合いのなかでひとつのものが生まれてくるだろうと。(181〜182pp)

 

 どうしても僕らは、目に見える生産性がどれだけ高いかで人間の価値を見ていくという傾向がありますよね。確かに目に見える生産性においては、患者さんは劣るかもしれませんが、見えない部分・計れない部分が存在しているのに、それをカットしてしまって見える部分だけで行くから、ゆとりがない形になるのかな。

 子どもの教育もやっぱり同じようなところがあるのかなと思うんですけど。成績がいいと非常にはっきり分りますから、そうしたら全体がいいように錯覚してしまってね。生産性というか、目に見える部分以外が見えないから、子供たちもものすごく窮屈になってしんどいんだろうなと思います。

(中略)

 そうですね。だから生産性基準というのは、やっぱり道具としての人間の部分だろうと思いますからね。そこらへんが本当に改まらないと。
 やっぱり、その人全体を理解するということじゃなくて、一部を全体だという形にもっていくと、そういう社会のあり方が、いらないことにしんどさを生んできたり、自分を信じる力をもたせないようにしてきているんじゃないかな。子供たちを育てていく過程でね、自分を信頼する力がつかない環境をみんなで準備しているのかなと。(184〜185pp)

 

 菅野くんがね、「変わってはいけない」という詩を持ってきて僕を教育してくれた。(中略)

 それはやっぱり、「今のままでいい」と言う人に出会うまでは、変わることはできないと。人間は成長できないと。「今のあなたでいいんだ」と言う無条件肯定的な関係のなかでしか、人間は伸びていかないということを表しているような詩なんです。

 ところが僕は、彼に「ここを直さなきゃいかん、こうしたほうがいい」ということを10年間言い続けたわけですね。(後略)  
(186p)

 
 なんかもう、目からうろこというか、自分の人への接し方から、自分自身への眼差しまで、いろいろと考えさせられました。

 
 はるる