日本文学1000作品で片山広子を知る
マザーテレサの言葉(だそうです)。
「思考に気をつけなさい。 それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい。 それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい。 それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい。 それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい。 それはいつか運命になるから。」
8日間の黙想に行って、私はまさにこの言葉通りの危ない路を歩んでいたことに目が開かれたところだったので、余計にこの言葉が身に染みました。
ところで、自分が持っている電子辞書の中に、いろんな(おそらく著作権切れの)文学作品が山ほど入っているということに今更ながら気が付きまして、軽井沢からの車中であれこれ読んでみました。
幸田露伴の「観画談」とか、岡本綺堂の「半七捕物帳」からの数作品とか、マハトマ・ガンディーの「神、国王、国家」とか。…なんでこんなものが「日本文学1000作品」と題されたものの中に収録されているのか、よく分からないんですが(^^;)。
作家の一覧を眺めていると、よく知らない名前がいろいろで、数作品を拾い読みしてもみました。
片山広子の「燈火節」(カトリックの聖女ブリジットにまつわる話だった。文章に品があって、好き)。
木村荘八の「浴衣」。
好奇心から堺利彦の「婦人の天職」なども読んでみた。これは結構皮肉がぴしりと効いていて、面白かったです。昨今の女性にヤジを飛ばす議員たちに読ませて差し上げたいですわ。
この「日本文学1000作品」には、『夜明け前』や『大菩薩峠』まで収録されていたのには驚きました。
ついつい『夜明け前』を読み始め、これが結構面白いものでぐいぐい読み進んでしまいましたが、なにせ、画面が紙ではなく、電子辞書の画面だから、目が疲れます。これが難点ですね。
キンドルを持つ人の気持ちは分かったけれど、私はかさばっても、やはり紙の本を持ち歩きたいです。
ところで、片山広子さんについて、ちょっと調べてみました。全然知らない人だったので。
Wikipediaにも簡単に説明が載っていましたが、馬込文学マラソンというサイトのがよかったので、そちらを張り付けておきます。
http://www.designroomrune.com/magome/k/katayama/katayama.html
以下は、上記からの一部引用(小見出しは省いてあります)。
明治11(1878)年2月10日、東京の麻布三河台の一角で生まれる。 父親はニューヨークの総領事を務めた人。 妹(次子)と弟(東作)がいた。東洋英和女学院は自宅から1kmほどだったが寄宿し、宗教的、文学的、西洋的素養を身につける。 明治29年(18歳)、卒業後、佐々木信綱に入門し短歌を学ぶ。 歌誌 「心の花」 に創刊時から参加した。 明治32年(21歳)、のちに日本銀行理事となる片山貞次郎と結婚する。
明治34年(23歳)頃から 「心の花」 に英訳文を掲載、大正2年(35歳)頃から鈴木大拙夫人ビアトリスについて本格的に翻訳を学ぶ。 大正5年(38歳)に第一歌集 『翡翠』 を上梓。 短歌にマンネリを感じ、また歌壇に身を置くことを好まず。 歌から離れて、松村みね子の名でアイルランド文学の翻訳に専念する。 大正9年(42歳)に夫と死別。 大正10年(43歳)に 『ダンセイニ戯曲集』 を、大正12年(45歳)に 『シング戯曲全集』、大正14年(47歳)にマクラオドの 『かなしき女王』 を訳出した。 文体は流麗で、坪内逍遥や森鴎外からも高く評価され、今もアイルランド文学や幻想文学のファンの間で人気がある。 文学活動を仕事と考えなかった片山は、稿料を受け取らなかったという(※2)。
昭和3年(50歳)、女性だけの文芸誌 「火の鳥」 の創刊を渡辺とめ子にすすめる(※3)。 昭和10年(57歳)頃、短歌に復帰。 菊池寛は片山を 「日本婦人中もっとも学識がある」 と評した。
昭和19年(66歳)、浜田山(東京都杉並区)に移転、一人暮らす。 翌年、長男の片山達吉死去。 第二歌集の 『野に住みて』 が編まれるのは、昭和29年、75歳のときだった。 昭和31年(78歳)、「燈火節」でエッセイスト賞を受賞。
最近、ちらちらとNHK朝の連続テレビ小説「花子とアン」を見ている(蓮子さまと花子さんの着物姿がいいわ)私としましては、この片山さんが村岡花子とつながりがあったという記述に目がいきました。(私としては珍しく、観られる時は朝ドラを観ています。小学生の頃アンブックスを全冊読破し、アンシリーズが好きだった者としては、観ちゃいますね。)
・村岡花子
東洋英和女学院の後輩。 村岡は片山を慕って馬込文学圏(中央二丁目)入りした。 彼女に翻訳を勧めたのは片山である。 家事の苦手な村岡に片山はご飯のおかずを届けることもあった。
片山広子は、芥川龍之介や室生犀星から “クチナシ夫人” と呼ばれていた。 片山の清楚な外見をクチナシの花になぞらえたのだろう。
しかし外見だけのことではない。 片山は決して人を悪く言わない典雅な人だった。 クチナシには、とかく人を悪く言う庶民の口(クチ)を持たない(ナシ)という意味も込められたようだ(※1)。
片山以外でも、ときおりは人を悪く言わない奇特な人はいる。 しかし残念ながら、これらの人は往々にして、自分だけは特別扱いだ。 自分のことだけは思い切り悪く言う。 その人が短歌を作る人ならば謙遜して、 「私の作る短歌なんて本当につまらないものですのよ・・・」 とか言う。
で、片山はどうだったかというと、違う。 全然違う。 彼女が書いた下の文章を読んでいただきたい。
長い代々のわが敷島の道にあつては、一つの歌を見る時、その歌が萬葉人のであつても、西行や實朝のであつても、また自分自身のものであつても、同じように一つの歌として計りみるべきものと私は信じてゐる。自分のものであつても、しひたげ潰すことは罪である。(片山広子「お声そのままに」より)
彼女は、偉い先生の短歌だけをありがたがって、自分が作るものを蔑むのは 「罪である」 とまで言い切る。
彼女は謙虚な人だったろう。 でも、彼女の謙虚は、卑下には結びつかない。 ある意味、厳しい生き方だろう。
うーん、私、好きだなあ、この方。紙媒体でもっとこの人の作品を読んでみたい。
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シングの『アラン島』を訳しておられるのか、この人は。ますます興味が湧いてきました!
評伝(かな?)も出ているのですね。なかなか読めないでしょうけど。
『片山廣子 孤高の歌人』(清部千鶴子、短歌新聞社、1997年)。
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はるる