種々の言葉

 メモ代わりに、心に残った文章を書き留めておきます。


 「寒糊炊き」についての文章「弱さも大切」(中日新聞・夕刊 2009年2月14日)。

 ちなみに、「寒糊」とは、大寒の頃に小麦の澱粉と精製水を混ぜて撹拌しながら炊き上げ、甕に移して10年以上暗所で寝かせた「古糊」のことだそうです。 
 

 多種多様な接着剤が出回っているのにどうしてこんなに手間のかかる作業をするのか。それもなぜ博物館で。


 指導の装潢(ソウコウ・表装)師は言った。「巻き降ろしの動きに耐えるには、掛け軸の裏打ちの糊は接着力が弱いほうがいい。何かと強度を求めるいま、弱い糊は作るしかないんです。」


 (中略)

 
 カビ菌に栄養分を吸いつくされた糊は、カビも生えない。百年後に接着の限界が来て再修理するときも、湿らせれば簡単にめくれ、作品を傷めない。


 ここでは「弱さ」がとても大切。歴史や文化は「強さ」だけが支えているわけではない、と博物館が教えてくれているようだ。

 間宮陽介「極小国家と極大国家」(中日新聞・夕刊 2009年2月17日)。

 ※読みやすいように、段落を引用者が変えています。

 小さな政府は決してサステイナブル(持続可能)ではない、というのは、われわれが金融危機から得た教訓であろう。

 リバタリアンは極小国家あるいは最小限国家を首長するけれども、その効果は高々一時的なものにすぎない。歴史を振り返ってみても、小さな政府が持続したためしはない。

 19世紀の自由放任主義は20世紀の大不況をもたらした。ケインズが「自由放任の終焉」を論じたのは、自由放任主義サステイナブルでないことを認識したからである。


 極小国家と極大国家は水と油の関係ではなく、むしろ両者は背中合わせの関係にあるように思われる。極小国家の極限は当の国家を廃絶することであろう。だが、国家を廃絶する試みが逆に極大国家を生み出したことは社会主義の歴史が示している。


 同じことは、社会についてもいえるだろう、人々が個人の殻に閉じこもって、小さな自由を謳歌すれば、強大な権力が背後から忍び寄ってくる可能性がある。

(中略)

 二百年ほど前、アメリカの民主主義を論じたトクヴィルは、個人がちっぽけな殻に閉じこもって外の世界に無頓着になるとき、その背後から強大な権力が立ち上がる、と言った。人々が外の世界から目を背けると、公と私は切断される。公と私は二極に分解し、両者が異様な形で肥大化していく。


 「あの人に迫る」三好春樹生活とリハビリ研究所代表)の回(中日新聞・夕刊 2007年3月9日)。

 これは、引越し作業の途中で出てきた切抜き。これも、適当に改行しています。

 老人は、自分が死んでいくところをきちんと見せるのが人間としての最後の仕事だと思う。

 それに、老人とうまく付き合えないということは、自分の未来とうまく付き合えないということなんですね。

 (中略)


 世の中「自立、自立」と言われるけど、これも幻想だと思う。自立って自分の若さに依存すること。でも若さとか健康とかは、どうしてもなくなっちゃう。

 「自立」「エージレス」「いつまでも若々しく」とか、そんな言葉ばっかり。老いや死があってはいけないみたい。ぼくは年相応っていうのが好きですけどね。その人らしく。


 庄野潤三『自分の羽根』より。

 娘と室内で羽根突きに興じる庄野氏。 

 ところが私は何とかして長く続けようと努力して、時々バレーボールの選手が地上すれすれに来た球を取ろうとして飛びつく時のような格好をして、空しく畳の上に転倒したりしているうちに、大事なことを思い出した。それは自分が打ち返す時に、落ちて来る羽根を最後まで見ることだ。


(中略)


 それを思い出してから、コントロールがよくなった、打った羽根は正確に飛んで行く。ところが、ついうっかりすると、忘れる。最後へ来る一つ手前で眼を離して行ってしまう。


(中略)


 私はこのことを文学について考えてみた。但し一般論として考えるのではなしに、自分が作品を書く場合について考えてみるので、他人に当てはめようというつもりはない。


 私は自分の経験したことだけを書きたいと思う。徹底的にそうしたいと考える。但し、この経験は直接私がしたことだけを指すのではなくて、人から聞いたことでも、何かで読んだことでも、それが私の生活感情に強く触れ、自分にとって痛切に感じられることは、私の経験の中に含める。


 私は作品を書くのにそれ以外の何物にもよることを欲しない。つまり私は自分の前に飛んで来る羽根だけを打ち返したい。私の羽根でないものは、打たない。私にとって何でもないことは、他の人にとって大事であろうと、世間で重要視されることであろうと、私にはどうでもいいことである。人は人、私は私という自覚を常にはっきりと持ちたい。


 しかし、自分の前に飛んで来た羽根だけは、何とかして羽子板の真中で打ち返したい。


 (中略)


 そのためには、「お前そんなことを書いているが、本気でそう思っているのか」と自分に問うてみること。


 (中略)

 「当り前のことで、何も珍しいことではないかも知れないが、自分はいっておきたいことがある。どうもよく分らんが、自分には話すだけの価値があることのような気がするから、別に誰が聞いてくれなくてもいいことだが」ということは、しっかりと書きたい。つまり、そいつこそ私の打つべき羽根に間違いないだろうから。
(「自分の羽根」199〜201頁)

 これは、一つの立派な見識ですね。私もかくありたいものです。


 

自分の羽根 庄野潤三随筆集 (講談社文芸文庫)

自分の羽根 庄野潤三随筆集 (講談社文芸文庫)


 見識といえば。

 「中日春秋」(中日新聞・朝刊 2009年2月11日)。

 安岡(正篤)氏曰く「識」には知識、見識、胆識の三段階があり〈知識の明るい人〉はたくさんいる。だが見識という〈人間ができておって、その上に志がある人かどうかというと、一万分の一ぐらい〉と少なく〈度胸が伴っている人になると、非常にレア〉になる。

 

 はるる